2014年5月27日火曜日

SEOは誰の為(介護のお仕事)


■ 食品サンプルでおなじみの「ながお食研」



介護の話

介護の問題は非常に大きな問題であり、誰しも大切に感じている事だと思っている。

しかしそれでも料金の問題、サービスの質の問題、人間関係のトラブル等がずっと解決されずに来ているのは何故だろうか?

個人的に思うには、、介護士と言われるお仕事は名前はともかくずっと以前からあるが、あまり省みられていなかったのはずっと感じてきた事だ。

だが、それは私が思うに彼らが「介護屋」状態になっていたからでは無かろうか、、。

今でもそれはずっと以前からその体質が残されてきていて、結局は「何をやってあげたら幾ら、何々をやってあげたら幾ら」と言うサービス屋になっているからと感じている。

その動機にサービスしたいと言う思いよりも以前にあるのは、まず「お金」と言う思いがあるからではなかろうか。

サービスの相手は生きている人であり、良いも、嫌だも言わないモノではない。

仕事に、それが前面に出ている事が強く感じられるのである。

失礼ながら、「この人には自分の介護をして欲しいとは思わない」一面が間違いなくある事を強く感じてしまう。

お仕事が無い為に介護「でも」やるか、介護「しか」無い、、と言った感じの以前で言う「デモシカ先生」ならぬ「デモシカ介護」になっていると思っている。

「人のお世話をしてあげたい」と言う動機が先ず先に有るべきだが、それが無い変わりに先ず「お金が欲しい」と言う事がずっと以前から伝統的に業界全体に満ちている感じだ。

そして「やって上げている」と言う目線は大抵の人から感じ取れてしまう。

だから「そんな人の世話にはなりたくない」と言う人が多いし、それを感じて嫌気が指す人や、トラブルになる事も出ているのだと思う。

介護士の道は厳しいのだと思うが、生きている人を相手にして信頼関係が築けるのは、先ず「人の為にやってあげたい」と言う動機を持てる人だけだと思うし、続ける事が出来る人は「犠牲的」にやれる人だけなのかも知れない。

こんな人の介護は嫌だけど「仕方ないからやる」では、トラブルは目に見えているし、指導する人も限界が来るだろう。

人の命の周辺の事は、関わる人の動機が大切な要素になってくる事を忘れてはならない人の世である。

伝統的に「まずお金ありき」では成り立つ事は無い役割であり、ましてやお金にも限度がある事を知るべきだと思っている。





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